じぶん観察。

6月19日と27日に、早稲田大学の学生さんにお話をしてきました。私を招いてくれる友人は、日本の通訳産業という分野を確立させ、学生に教えている偉い人なのです。毎年、私も見たこと聞いたこと経験したことを付け加えながら、手話が言語と扱われてこなかった歴史とか、聞こえない人が今も困っていることなどを話しています。私の授業の前準備として、新聞記事を読ませて討論したりと、手話通訳関連にたくさんの時間を割いているようすです。

今年の学生さんたちは、ろう者・難聴者とまったく接点がない、授業でも出会ったことがない人たちばかりでした。

授業では、「あなたが気づかないだけで、聞こえない人や聞こえにくい人は、あなたの周りにいるんですよ。よく観察していれば、『あっ、この人、聞こえないのかな?」とわかります」という話をしたんです。

そしたら、学生さんのひとりから、「そう言われても、よくわからないと思う」という率直な感想をいただきました。

そりゃそうだろうな。

電車の中で、視線はスマホ画面に、耳はスマホから流れる音楽を聴いていたら、まったくのひとりの世界。周りにいる人のことなんて考えていないよね。普段から気づいていないのに、緊急事態になって気づけるのか。ふさわしい対応ができるのか。

なので、私がどうやって聞こえない人の存在に気づくか、自分自身を観察してみようと思いました。

昨日は、「お話を聴く会」のパソコン要約筆記に出かけました。パソコンを2台背負って(雨が降らなくて良かった!)、家に着くまでに、何か甘いものを口にしたい。そう思って、武蔵小杉の駅ビルの甘味処へ。

私がお店の入口に立ったとき、私のすぐそばに70代ぐらいの男性が、メニューに顔を近づけて読んでいたんです。店員さんが「2名さまですか?」と言ったので、私は「いいえ、1人です」と言いました。その会話の間、男性は顔をあげてこちらを見ることもしなかったので、「あ、聞こえない人なのかな?」と思いました。

私と、その男性は離れたところに座っていました。あんまりじっと見るのも失礼なので、ちら見。「あっ、補聴器してる。」右の耳だけ補聴器が。あと、たくさんのポケットのついたチョッキを着ていて、小物を入れています。「手が自由自在に動かせるように、そうしているんだな。」と思いました。確信、深まる。我が夫の胸ポケットはひとつしかないけど。

食事を済ませると、男性は立ち上がり、お財布からクレジットカードを取り出して、伝票といっしょに手に持ち歩き出す。会計がどこかわからないようで、お店の外に出てしまう。厨房から店員さんが「お客様、こっちです」と窓口から身を乗り出して手を振り、声をかけると、男性は気づいて会計を終え、いなくなった。お店にいる間、ひとことも発しなかった。

そうか、私が気づけるのは、聞こえない人にいつも関心をもっているからなんだ。

私の席は、両隣と近くて、話し声がぜんぶ聞こえてしまう。人をほめる言葉だったら、まだいいんだけどね。甘いものを食べたいのが第1の理由だったけれど、聞くことを休みたくてお店に入ったのに、だめだこりゃ。そのお店には長くいられなかった。

授業に出かけたことを周りのクリスチャンの友人に話すと、たいてい「用いられて感謝ですね」と言われる。あなたの経験が用いられて感謝という意味なのだろうか。その人がだれかに言われて嬉しい言葉なのだろうか。あまりピンとこない。それよりも、「手話通訳者としてではなく、『たかおゆきこ』という人間を学生さんに紹介してくれたのね」とか「学生さんに話すことは私も嬉しい。ありがとう」とかの言葉に、共感し、温かい気持ちになります。

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