2018障がい者と教会の集い

8/19~20

今年もパソコン要約筆記のご奉仕に行ってまいりました。

毎回、いろいろな生きづらさを抱えた当事者が、それぞれの立場で発題される。

話し合いの場はあるけれど答えは出ない。そんな簡単に答えの出ない問いをお土産に持ち帰る。

初日の発題は、難聴の30代男性が、自分の考え方や、困難に立ち向かう姿勢は、学生時代に政治思想を学ぶことで培われたという話をしてくれた。人工内耳の手術をを受けたことにより、補聴器以上の聞こえを得ることができるようになり、讃美歌を歌ったり、兄弟姉妹の祈りを見よう見まねでやってみることができるようになったそうだ。

そして、彼の通う教会の牧師がコメントする形式。

難聴者って、がんばるんだよね。聞くためにがんばる。アンテナをはって、自分の力でできることはなんとかして壁を乗り越えようとする、すごい努力を感じた。彼じゃなくて、夫もそうだし、私の知っている難聴の友人すべて。本当に、そうなんだなあ。

でも、それを聴者の立場から「がんばらなくていいのよ」と言ってしまったら、なんか違うんだろうね。上から目線であり、噛み合わないと感じるんだろうね。でも、噛み合わなくても、彼は人間の言葉ではなくて、みことばに生きるパワーを見いだしている。なんとか互いを知ろうとして本音をぶつけ合う関係があって素晴らしいと思った。

A4で5ページもびっしり書かれた原稿を、まさか全部読むとは思わなかった。私なりに要約して前ロールにいれてあったので、生入力をしながらうまく使いこなせたけど。

また、全盲の女性が通う教会では、彼女のために点字の週報を作ることや、いわゆる「当番制」をやめたんだそうだ。彼女を駅まで送迎するのも、だれかが隣に座って音読するかも、その日にならないとわからない。教会員の自主性に任されている。全盲の女性も「今日はだれが隣に座ってくれるんだろう」と楽しみなんだそうだ。送迎の場合、10時までにだれも迎えに来なかったら、教会に電話をするシステムになっているそうだ。

あと、「大変ですね~」という言葉を、苦労をわかってもらいたい私はときどき欲しいと思うが、自分が言われて嬉しい言葉であっても、安易に他人にかけてはいけないと感じた。特に、作業とか仕事であればいいけれど、例えば難聴であるとか性格とか民族的歴史とか在日、性的マイノリティなど、自分の努力ではどうしようもない、アイデンティティに関わることで「大変ですね-」と言ってはいけないんだなと思った。というか、突っ込んだ意見を投げかけるのでもいいし、対話することなしに、そんな言葉をかけられたら、「全部わかった気になるな!」と、すごく付き合いにくさを感じるそうだ。差別を恐れて口を閉ざすのではなく、逆に、どんなことが差別になるのか、当事者に聴いてみて、「失礼だな」と言われたら「ごめん」と謝ればいい。いろいろと知恵がつくと、シンプルなことができなくなるのかも。

また、参加者の中には、生まれつき全盲の方と、2年前に見えなくなった中途失明の方が来ていた。集会の始まる前、盲人の先輩が後輩に「盲人の手ほどき」をしていたのを私は静かに聴いていた。「食事のとき、しょうゆをこぼしてしまう。そのときはどうするんですか」と後輩に聴かれ「それは、しょうゆの入れ物の傾け方で覚えるんだよ。それにひと押しでしょうゆがちょっと出る入れ物も売ってるよ」「何事も体験してみなきゃ始まらないよ。失敗して、やってみて、自分のやり方を見つけるんだよ」と先輩。なるほど・・・盲人の方々もそうなんだ。

情報保障の熱が、少しは伝わったかな。要約筆記のミニ勉強会をして、ヒヨコが生まれました(ここには写っていないけど)

笑顔で写っていますが、2人入力はきついです。身体に負担がかかります。明日からクリスチャン手話セミナーに行くので、今の気持ちを書きました。

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