救いの証し

日曜日の礼拝後、世代別の交わりで、救いの証しを依頼されました。イエス様を信じる前の自分を久しぶりに振り返ってみたら、あのときどんなに希望のない暗い気持ちで生きていたのか、40代半ばになってやっと言語化できるようになったことに気づかされました。掘り下げすぎて、時間オーバー&終わらない・・・。変なところでまとめてしまった。その場の人数が少なくてよかったかも。

話したことばの響きを感じとって、新しい発見がありました。

<救いの証し>

私が初めて聖書の御言葉に触れたのは、いつかはわかりません。幼稚園を卒園するときに、女性の園長先生が、1冊の新約聖書をくださいました。今でも持っています。ひかりのこどもらしく歩みなさい が幼稚園のモットー。それが聖書の言葉だとは知りませんでした。私はどんな子どもだったかというと、のんびりゆっくりしていて、いつも「早くしなさい」とせかされていました。本を読むのが好きで、集中すると周りの声など耳に入らなくなるほどでした。幼稚園のときは、本を読みながらテープに録音するのが好きでした。小学校にあがって、4月、新学期ごとに学校からもらってくる教科書は、その日のうちに全部読んでしまいました。(算数以外は。)

優等生タイプの両親のもとで育ち、「いい子」だったので、失敗はしてはいけないとか、悪いことはしてはいけないと思い、失敗に対する恐れがすごくありました。自分なりの意見をもったり、表現するのは上手ではありませんでした。ひとりの友達が「レーズン好き」と言ったら「好き」と言うし、他の友達が「レーズン嫌い」と言ったら嫌いと言う。いつもだれかの言いなりです。そのほうが楽だから。そんなわけで自分が何が好きなのかもわからなくなり、なるべく目立たず、けんかしないように、人とぶつからないように歩んできたと思います。反抗期もありませんでした。大きな声が出せなくて、学芸会のときに役を替えさせられてしまったこともあるくらい。同い年の友達より、先生と話すほうが好きで、それゆえに、生意気だといじめられて、学校に行けない日や、行っても保健室直行の日々も多かったです。

私はクラスメートと同じ中学校には行きたくなかったので、当時はあまり多くなかった中学受験をしました。明日、受験をするという日に、父が会社から帰ってきて開口一番、「ニューヨークに転勤することになった」と言ったのです。私は私立のミッションスクールに受かり、3ヶ月だけ通ったあと、引越の準備をしました。先に渡米して住む家を準備してくれていた父と、母・弟・私が合流して、アメリカ生活が始まりました。当初、3年の滞在予定と聞いていたので、帰国後のことを考えて、現地校ではなく、日本人学校に通いました。駐在員の子弟が多く入れ替わりが激しかったけれど、自由な校風でした。アメリカ生活があと3年延びると父から話を聞いたとき、多くの友達が日本の高校受験を考えたけれど、私は現地校に通うことを選びました。中2のときに体験した交換ホームステイがよかったことと、それまでアメリカに住んでいながら、全くと言っていいほど英語ができなかったので、少しでもできるように・・・というのは表向きの願望で、内面は、「このままじゃ日本で堂々と生きられない」という恐れがあった気がします。

とにもかくにも、中3の夏休みから英語の特訓を始めました。ちょうどそのころ、母が日本人女性の集まりに参加したことがきっかけでクリスチャンと知り合い、家庭集会に通うようになっていました。(母は、帰国後、教会に行くのをやめてしまいました。)ちょうどいいタイミングで、日本人の若い牧師一家が招聘され、家の近くに(といっても車で送ってもらわなくてはいけない距離でしたが)日本人教会が始まり、通うようになりました。日曜日ごとに建物をお借りしていた、そこはユダヤ人の礼拝堂だったんです。屋根には十字架ではなくダビデの星が掲げられており、講壇にはイスラエルの国旗がいつも掲げられていて、地下のホールには、ヘブライ語のアルファベットが貼ってありました。毎週見ているので見慣れてしまい、イスラエルという国を意識したことはありませんでした。

現地校は、日本人師弟は少なく(というのは学歴重視の家庭の子は、もっと頭のよい学校に行くため)イタリア系移民が多い町に、韓国人が移り住んできていていました。あまり黒人は定着しないようでした。私はどうやって知り合ったか忘れたけれど、3つくらい年下のJunonという女の子を家に招いてピアノを教えたことがあります。彼女はまもなく家庭の都合で引越して行ったのですが、「この町は黒人には住みにくかったけれど、受け入れてくれてありがとう」と言われました。クラスメイトは、北朝鮮、マレーシア、イラン、サウジアラビア、香港、台湾、韓国など、さまざまな国から来ていました。教会の友達が、ハイビーエー(Hiba)という高校生の伝道団体のサークルを紹介してくれました。リーダーが車を運転して、さまざまな地域から集まる高校生を送迎して集会に集めてくれたり、家に招いてくれていっしょにクリスマスのクッキー作りをしたりしました。Hibaで出会った友達には、同じ高校に通う友達もいました。週に1度、授業が始まる1時間前に学校に集まり、聖書を読んで祈って1日を始めました。クリスチャンの人たちといっしょにいると、とてもリラックスして自分が受け入れられている感じがしました。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを閉め出します」などの御言葉を通して、神様は少しずつ、私の心の扉をノックしてくださっていました。Hibaの集会でJohn3:16を自分のことばで説明してロールプレイしたときに、涙があふれて止まらなくなりました。

そこで私は素直にイエス様を受け入れたか? いいえ。あれは一時の気の迷いだったんだわーと思ってしまいました。ちょうど進路を決める時期で、家族といっしょに帰国し、大学を受験するか、アメリカにひとり残って大学に行くかを選ばなくてはいけませんでした。こんな思いのままでアメリカに残ってはいけないと思い、またまた楽なほうへと流れてしまいました。それでも友達や近所の人には、帰国に際しての複雑な思いを話していました。

日本人教会に通っていたとはいえ、日本で教会に通ったことがありませんでしたので、帰国後も教会に行くことになるとはあまり思っていませんでした。帰国後、父の会社の社宅に2年ほど住みました。そこから自転車で行けるほど近所の教会の青年会が、毎月トラクト配付をしていました。そのトラクトを読んで、教会に行きました。びっくりするほど重々しい雰囲気で、同世代がだれもいない気がしました(実は、いたけれど)。1ヶ月後、受付にいた方が、私を覚えていて、名前を呼んでくださいました。教会に行っていなかった月日と、教会に行っていた月日を比べると、私の人生にたしかな変化があることがわかりました。イエス様を信じようと決めた18歳の秋でした。

・・・と、イエス様の十字架を語らずに時間オーバー。こりゃ~ダメだ。

神様の愛、ご性質とご計画について知るのは、ずっとあとになってから。そのあと手話や要約筆記を学んだ。順序に意味があったんだと思う。難聴者との結婚を機に教会を変わり、数年間は基本教理の学び直しって感じだった。神様の救い・癒し・解放の御業は今も続いているし、神様が意図された「わたし」への回復って、すごい綿密な計画だな~と改めて思いました。

「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植え付けられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」ヤコブ1:21

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