書くことがない?

文章を書く機会はよくあるのだが、ブログを開くと、「書くことがない」と思って画面を閉じてしまう。クローゼットに服がたくさんあるのに、「着る服がない」と思ってしまうのと同じかな。

自治会役員のお仕事も無事に終えた。2号続けて広報誌の編集に携わることができた。

あと1年で、私が50歳になり、夫が定年になる。身軽になっておきたいと思って、少しずつモノを捨てている。夫が1ヶ月ぶりに帰宅(3/26夜~29昼。3泊4日なんてあっという間)する前に、2日かけて、いろいろとごみを捨てた。それでも夫の見た目には未だに変化がないかも。

考え事をしたり、本を読む気になる家にしたい。今、考え事をするのはお風呂に浸かっているときである。読んでいない本がたくさんあるのに、なぜか家では本を読もうという気にならない。外出の機会が減っているので、さらに本を読まなくなる。電車の中では読む。「本を読む姿勢が発声に悪い影響を与えるから読まないように」と言われている歌のレッスンに向かうときは、なぜか本を読みたくなる。キッチンが食事づくりに適した空間であるように、リビングもリラックスして、創造的なことができる空間にしたいと思っている。

 捨てたもの:植木鉢5-6個(台風に備えてベランダから回収してそのまま奥の物置においていた)。びん(大量にあった。ふたは小物金属ごみ)。納戸にあったダンボール、箱。あとで読もうと思ってためていた雑誌。キッチンマット(掃除がめんどうなので)。保冷剤(実家からもらったものが大量にたまっていた)。結婚前に買ったハイビスカスティー(大きなびんに入れていたけれど全然飲まなかったので、やっと中身を捨てて、びんも資源ごみに出した)

紙袋って、なんで捨てられないんだろう~。持ち手の部分が汚れているものは、ミックスペーパー専用にした。エコバッグも、たくさん出て来るよ~。裏の白い紙は、ノートテイク用にためていたけれど、使うときは20枚ぐらい一度に使うけれど、ほとんど使う機会がなくなった。保存スペースからあふれ出していたので、量を減らした。

私の両親は、私が「片付けられない」と思い、何かの病気なのではと心配し、何かにつけテンションの下がる言葉を発してきた。いわゆる「片付け本」を買ってくれたりしたけど、よく考えたら、管理するにはモノが多すぎたのだ。モノの捨て方を知らなかっただけ。両親は片付けが上手というわけではない。昭和世代の親によく見られるように、「いつか使うから」と言って、捨てない。私がごみ箱に捨てたものも拾い出して使っている。実家も不要なモノが堆積している。片付けられないのは、私のせいにしてたんじゃないの?と思うようになった。去年、母は、弟の部屋にある壊れたステレオを修理に持って行って断られ、持ち帰り、家に運び込もうとしたときに何かにつまずいて足を捻挫して、病院通いをした。コロナ禍でお稽古事が休みの期間に起こった出来事で、人々の前に惨めな姿をさらすことがなく、母のプライドが保てたかな。神様が守ってくださったと思う。できる人は、老いて何かができなくなることを恐れるんだなと思った。

とりとめも無く、まとまりもつかないまま、この辺で終わろう。

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